「続・なぜ私は親鸞会をやめたか」を読んで|やっぱり本願寺関係の方でしたね

(1)親鸞聖人の教えが、心にないのでしょう

まず、こう弁明しています。

「信心決定の体験自体を否定してはいません。信心決定の体験はあるのだと、私は思っています」

初めのサイトでは、

人はそれを「ユートピア」とか「桃源郷」「ガンダーラ」「シャングリラ」などという言葉で表現してきたように思います。
親鸞会の人たちは、そんな理想郷を求めて夢見る人たちだと、私は思います。いつかはできるのかもしれない、「信心決定」を夢見て、果てしなく追い求める人たちだと接していて感じました。

 (※ユートピアとはギリシア語で「どこにもない場所」の意)

とまで言っていたのに、手のひらを返すような豹変ぶりです。

親鸞聖人の数多くの明言に触れて、あわてて、こう言わざるを得なかったのでしょう。結構なことです。これが正直な気持ちなら、かすかな仏縁は感じられます。

※参考リンク:親鸞聖人の明言は、こちら

そうです。

「信心決定」、「無碍の一道」、「摂取不捨の利益」の世界は、ユートピアでもなく、桃源郷でもなく、ガンダーラ、シャングリラでもシャンデリアでもない。まちがいなく実在し、体験できる世界です。

そして、人生の意味を明らかに知らされる世界です。

それにしても、この人の口ぶりは、なんともよそよそしい。

「否定はしない」「あるのだと、私は思っている」とは、何かしら、自分の人生の根本問題としてではなく、まるできどった学者か、傍観者のような表現です。

この方にも分かっていただきたいと思い、誠心誠意、親鸞聖人のお言葉を提示したつもりですが、やはり今回の文章にも、その親鸞聖人の言葉に対する言及がまったくありませんでした。

なぜでしょう。

そもそも、仏説や、親鸞聖人のお言葉以外に、何を持って「信心決定の体験はあると思う」などとこの人は言っているのでしょうか。

「信心決定」「信心決定」と言葉としては、聞いているのでしょうけれども、それが一体何を意味するのか、どんな体験なのか、自分の人生とどんな関係が有るのか、まったく理解されていないようです。

「なぜ親鸞会に居続けるのか」の項目に、こんな文章があります。

親鸞会に癒しを求め、居心地のよさを感じ、なかなかやめることを決断できず、親鸞会に居続けたというのは、否定できないところです。

もし、私も親鸞会の職員であったり、結婚相手や家族が長年の親鸞会会員なら、生活の安定を求め、人間関係のしがらみから、親鸞会に対して、様々な疑問を抱きつつも、会員をやめていなかったのかもしれません。

こんな文章を読むと、なにか、求めるものが間違っていたのではありませんか、と忠告したくなるのは、私だけではないでしょう。

だから、残念ながら、彼の視線は、つねに他人に関心が向いていて、「信心決定、そんな人いるのかな」といった調子です。言葉に対する感覚が軽々しく、仏法がまるで、自分の問題になっていないようです。

親鸞学徒にとって、「親鸞聖人の教え」が最も大切なもの。そして教えとは、すなわち、「親鸞聖人のお言葉そのもの」なのです。

その親鸞聖人の言葉が、自分のこととしてまだ問題にもなっていない人は、とても親鸞学徒とは言えませんね。

ここで、もう一度、『教行信証』冒頭のお言葉をお聞きしましょう。

噫、弘誓の強縁は、多生にももう、あいがたく、
 真実の浄信は、億劫にも獲がたし。
  たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。


もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
  かえりてまた、曠劫を逕歴せん。

 誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
   聞思して遅慮することなかれ。(『教行信証・総序』)

「ああ……なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、求めつづけてきた歓喜の生命を得ることができた。これはまったく、弥陀の強いお力によってであった。深く感謝せずにおれない。もし今生も、無明の闇の晴れぬままで終わっていたら、未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。なんとか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを」

 信心決定とは、

 多生にもあえない体験だとおっしゃっています。

 億劫にも得がたい体験だとおっしゃっています。

 それはもう、100年や200年求めて得られる、ちっぽけな幸せではなかった、と知らされますから、「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことをえた」と言われているのです。

 多生億劫の間求めても、得られぬものが得られたのだから、「ああ!」と驚嘆されたのも当然でしょう。

 人生の目的どころではない、一生や二生の問題ではない、多生永劫の大目的を果たさせていただいたのだという、感激に満ちた親鸞聖人の告白です。

信心決定とは、そういう体験なのです。

言葉の意味だけでも、正しく理解できていたら、もっと真摯に、求めずにおれなくなるはずです。

 この人は、親鸞聖人の言葉、すなわち親鸞聖人の教えが、まったく、心に入っていない。たとえ、知識としてはあってでも、その言葉の意味となると、誤解だらけです。おそらく聴聞していても、説法の真意を掴み取ろうとする努力が、ほとんど、なされなかったのでしょう。

「10年求めたのに、信心決定できなかった」という、この人の言葉が本当だとしても、確かにこんな程度で聞いていたのでは、いつまでたってもできるはずがありません。

では、どんな人ができるのか。

親鸞聖人にお聞きしてみましょう。

 たとい大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなうなり(浄土和讃)

「たとえ、この大宇宙が火の海になっても、その中をかきわけても聞こうという心で聞くのだ。さすれば必ず、信心決定が出来る。永遠の幸福が獲られるのだ」

 いねむり半分の惰性の聴聞ならば、いくら10年繰り返しても、信心決定などできるはずはありません。

 その上、できない理由を他人のせいにして、果ては教えを説かれる知識(先生)をも謗っているようでは、夢のまた夢というものです。

 私はこれまで親鸞会で、救われた喜びを語る人と、数多くお会いしてきました。本当に、素晴らしい、尊い方々です。存命中の方や、すでにお亡くなりになって、今は弥陀の浄土か、還相の菩薩として活躍しておられるであろう人々。親鸞会には、そういう幸せな方々が、実に多くいらっしゃいます。

 ただ、求めている過程で、残念ながら、ご縁を遠ざけられる方もあります。いろいろな因縁があり、いたし方のないことでしょう。

 しかし、そういう方も因果の道理を人生の根本として、親鸞聖人の教えを尊く仰いでいらっしゃる方が大変多いことも私は知っています。

 そして退会された後でも「尊いお話を聞かせていただいた」「人生で大切なことを学びました。」という、感謝の心を忘れない方が多いのではないかと思います。

 その点、この方のサイトは、反面教師として、価値を持つかもしれません。

「目的違いの聞法では、続きませんよ。まして仏説である因果の道理を否定して愚痴を言い散らしているようでは、人生、不幸になるだけですよ」という、人間として教訓とすべき内容のように、私には思えてなりません。



next>>2.教えに関して、なんの検討もしていませんね