「続・なぜ私は親鸞会をやめたか」を読んで|本願寺関係者の批難に答える

(2)教えに関して、なんの検討もしていませんね

次に、こう述べています。

私が言いたいのは「親鸞会で聴聞を続けて、信心決定できるのか」ということなのです。

「信心決定はある」と言いながら、しかし、「親鸞会ではできないじゃないか」と言いたいようです。

 これは、どういう意味なのでしょう。

 蓮如上人仰せの通り 「仏法は、聴聞に極まる」 であります。

 信心決定するには、仏法を聞くことが最も大切なのです。

「本願寺の教えを聞いても、信心決定できない」なら分かりますが、「親鸞聖人の教えを聞いても、信心決定できない」とは、まさか言わないでしょう。あえて、「親鸞会で聴聞を続けて」と書いているからには、「親鸞会の教えていることは、親鸞聖人の教えとは違う」と、この人は考えているようです。

 それで今回も、ことさら「親鸞会の教義」という言葉を繰り返して使い、意識的に本人も「親鸞聖人の教え」とは区別しています。

 では、「親鸞会の教義」と「親鸞聖人の教え」とは、どこが違うのでしょうか。それこそが、まさしく「親鸞会をやめる」「やめない」の最も大きな判断基準であるはずです。ところが、読んでみると、この点にこの人物は、まったく触れていません。

 前回も指摘したはずなのに、それに対する何の説明もなく、同じ事をあえて繰り返していることに、おかしな感覚をいだかれる方も多いでしょう。

 あきれるほどの、空振り、素通り。そして、そのことに、当の本人も何の疑問も感じていない。親鸞聖人の言葉が、この人の心に、「大切なものとして存在していなかった」という事実を、如実に示してはいないでしょうか。

言い訳のように、こういっています。

親鸞聖人の言葉は、親鸞会でも教えられていますが、ほとんどが信心決定した後の、信後の世界についての言葉です。親鸞聖人が信心決定という宗教体験をされ、その体験から発せられた言葉なのでしょうが、私にとっては、その体験して知らされることの内容が、分からないので質問しているのです。

それは先ほども書いてきましたように、「反証不能な因果の道理を、どうして大宇宙の真理だと思えるのか」「三世や阿弥陀仏といったものの存在を、どのように論理的に理解できるのか」という疑問です。

この疑問が解消されていないのに、なぜ私が親鸞会をやめるのか、という気持ちを書くにあたって、「親鸞聖人の言葉」が出てこないのは、当たり前とも思うのですがいかがでしょうか?

ところが一方で、

私も「信心決定の体験がマインドコントロールなのだ」とは思いません。それは、立派な宗教体験なのでしょう。

とも言うのです。

 要するに、親鸞聖人の教えや言葉は論理的に理解できないから、信じられない、しかし早く信心決定という立派な宗教体験はしたいのだ、ということでしょうか。

 信後の世界というのは、因果の道理も合点できぬようなレベルの人に理解できるものではありません。(くわしくは、「(4)科学信心で幸福になれますか?」で述べます。)

 この方は絶対の境地が、自分の頭で理解できるとでも思っていたのでしょうか。ここからして、すでにトンチンカンなのです。

 これは、信心決定が、「できる」とか「できない」以前の問題です。

 そもそも、信心決定とは、どういうことなのか。

 言葉の意味から、もう一度、しっかり勉強しなおされてはどうでしょうか。

 恐るべき無知と誤解。それに対する自覚と反省の欠如。/p>

 そこに、この人物の誹謗の根本があるように思われます。

 そして、何を聞くことが、大切なのかが、やはりまったく分かっていないようです。

 もう一度、言いましょう。

 他力になるまで、他力を聞くのです。

 正しい教えを聞くのです。

 だからこそ、繰り返しますが、親鸞学徒にとって、親鸞聖人の教え、言葉こそが最も大切なものであり、命なのです。

 これは、何度繰り返しても、繰り返し過ぎることはありません。

 親鸞学徒の鑑といわれる、覚如上人や蓮如上人が、なぜ自分のことはまったく語らず、「親鸞聖人の教えばかり」を書かれたのか。

「あわれあわれ、存命のうちに、みなみな信心決定あれかし」と、信心決定してもらいたいということ一つを、いつもいつも思い続け、念じ続けていかれた、これらの善知識(正しい仏教の先生)が、なぜ自分の体験をほとんど書き残しておられないのか。

 この重大な意味を、よくよく知らなければなりません。

 だからこそ、高森先生もそうされるのでしょう。

 だからこそ講師のみなさんも、自分の信仰の喜びを、つねに親鸞聖人のお言葉で語られるのでは、ないでしょうか。

 それこそが、親鸞学徒の姿であるからです。

 このことが、とっくりと腑に落ちていれば、この方の疑問のほとんどは、払拭できるはずです。

 つまり、この人は、信心決定というもっとも大切な言葉の意味さえ、正しく理解できていなかった、ということです。

 そういう意味で、まさにこの人は、親鸞学徒ではなかったのです。

 ましてや、冗談にも親鸞会の幹部などとは言えません。

 光に向かって真摯に求めている本当の親鸞学徒なら、もし何らかの事情で親鸞会を退会される場合でも、親鸞聖人の教え、お言葉を、心の光として人生を歩んでいかれると思います。そして、そういう方はいずれ必ず尊いご縁を結ばれるでしょう。
 この人物のように、聖人のお言葉をまったく避けて通るなどということは、ありえないことです。

 いわんや、自分のやめる原因を他に責任転嫁して、教えを誹謗する、などということは、人間として、実に情けないではありませんか。



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