「続・なぜ私は親鸞会をやめたか」を読んで|本願寺関係者の批難に答える

(3)初めから、非難することが目的?

 それとも、親鸞会の教えが親鸞聖人の教えと同じであるかどうか、について検討するのは、何か、この人にとって、不都合なことでも生じるのでしょうか。

 そうかもしれません。

 悪意を持って親鸞会を誹謗しようとする者にとって、親鸞会との教義論争は、いわばタブーとなっています。

 この人物は、衰退する本願寺を何とか擁護するために、初めから、親鸞会を攻撃することが目的だったのでしょう。

親鸞会で説かれていることは、前回もお話した通り、親鸞聖人の教えそのままです。

 

 高森先生のこんな言葉があります。

「私はただ、親鸞聖人が 教えられていることを、 今日の人に分かるように、 書いているだけ、 話しているだけである。」

 まさに、親鸞聖人の教えを、現代人に分かりやすく、丁寧に、ときにユーモアたっぷりに説き明かされます。老若男女、多くの人々が参集されるのも、それだけ、お話が魅力に満ち、説得力に富んでいるからでは ないでしょうか。

 元富山大学学長の小沢弘氏はこう述べています。

本部親鸞会館の法話ではたいてい「正信偈」か「歎異鈔」の講義が中心となるが、各地の会場の法話では「王舎城の悲劇」など、俗耳に親しみやすいテーマが取り上げられる。ときおりユーモアを交えながらの、噛んで含めるような高森の語り口には、なかなか魅力的なものがある。
出典:岩波文庫 日本通史 第21巻 宗教意識の現在 三.「土着型」新教団の台頭 真宗「原理主義」の挑戦   著者 小沢浩(元富山大学学長)


 それにしても、この人のサイトを読んで、どうもひっかかるのは、信心決定した人数 や名前を、やけに問題にしている点です。

 なぜでしょう。

 そういえば、京都に本拠地を置く浄土真宗本願寺布教使の某グループは、「うちの会には、信心決定したものが多い」と吹聴しています。

 ところが、そこで語られる体験話は、親鸞聖人の教えとはかけはなれた内容ばかり。正しい親鸞聖人の教えを知らないものですから、まちが った体験を、信心決定を思い込んでしまうのでしょう。

 事実、教えには、まったく無知な人が多いのです。

 彼らの機関紙などを見ても、かわいそうなくらいです。

 それでも、「信心決定したつもり」で、踊ったり、喜んだりして、そ の体験話を他人にも言い回っているのですが、これらは土蔵秘事か、類 するものとして、浄土真宗では、恐ろしい異安心と言われています。

 体験の真偽は、あくまでも「親鸞聖人の教え」を合致するかどうかで、 判定されなければなりません。

 ひょっとしたら、この人物のサイトも、そちらに引き入れるためのも のかもしれませんね。

 みなさんも、気をつけてください。







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