
また、こんなことも言っています。
私は、「親鸞会の教義」を『論理的・客観的に理解して納得した』ものだと思っていました。しかし、それは間違いでした。そうではなくて、『信念により信じていた』のです。もう少し分かりやすくいうと、正しいにちがいないと『思い込んでいた』のです。
それは、何度も書いていますが「親鸞会の教義を大宇宙の真理である」と、論理的な説明もなしに、『信じている』人たちが少なくないことと、そして、それらの人たちが、「自分は『信じている』のではなく、『論理的・客観的に理解しているのだ』」と思っているからです。
学生さんの間で、どんな話し方がされているのか、私はよく知りませんが、ここでは一応、この人の言うことに従っておきましょう。
それにしても、言葉の使い方が、あいまいであるため、この人の文章は、実に意味がとりにくい。
「論理的な説明を聞いて納得した」ということと、「信念により信じた」ということは違うのだ、と何度も強調しています。まずこの二つを、ハッキリ区別せよ、と言いたいのでしょう。
そして、本当は「信念により信じている」のに、それを「論理的に理解したから信じている」と思ってはいけない、と言いたいようです。
極めて単純な二分法です。
しかし、どの程度の説明を聞いて、「論理的な説明だと納得する」かどうかは、その人自身の智恵や才能、学問、経験によって異なります。 結局のところ、本人が「論理的だから、これは正しいだろう」という「信念によって信じている」だけでしょう。
仏教では、どちらも、自力の信心というのですよ。
あるところに、こんな面白い書き込みがありました。
親鸞会の会員(以下A)と思われる人と、このサイトの制作者と思われる人物(以下B)と の、やりとりです。
抜粋してみます。
A
>まず、「万有引力の法則」から予測される事象があると思います。
>そして、その予測に反する現象が確認されれば、「反証された」ことになり、
>「万有引力の法則は『反証可能』な説である」ということになるのでしょうね。
回答してくれたのはありがたいんだけど、
質問は、以下のようなものだったわけで、どうも噛み合ってないよね。
>>たとえば、「万有引力の法則は宇宙の真理である」という命題は真か偽か。
>>(はたまたどちらでもない?)
>>「反証不能」または「反証可能」という言葉を使って論述してもらえないかな。
>「万有引力の法則」は「科学の方法における真理」だと考えて質問を設定
>したんだけど、
>もしかして、そこからすでに間違ってるのかな。
「万有引力の法則は反証可能である」という主張は一応分かるんだけど、そこから、
「万有引力の法則は宇宙の真理である」という命題は真/偽である、という結論にどのように行き着くの?
B
>「万有引力の法則は反証可能である」という主張は一応分かるんだ
>けど、そこから、
>「万有引力の法則は宇宙の真理である」という命題は真/偽である、
>という結論にどのように行き着くの?
万有引力の法則に反する現象が確認されれば、万有引力の法則は宇宙の真理(どこでも成り立つ)ものではない、
すなわち、「万有引力の法則は、宇宙の真理である」との命題は、「偽」ということですね。
A
>「相対性理論は宇宙の真理だ」という場合は、「思い込んでいる」というよりも、
>「その人は、相対性理論を宇宙の法則だと論理的に説明している」と、私は言いますね。
>「相対性理論」は「反証可能な理論であり、かつ、反証されることなく生き残っている理論」なので。
君が「論理的に説明する」と言っているのは、どうやら以下の手続きのことを言っているらしいな。
1.Aは反証可能である。よって、Aは科学的である。
2.Aは反証可能であり、未だ反証されていないかぎり、暫定的に真と見なされる。
3.(暫定的に)真なるAは、本当に真(宇宙の真理)である可能性がある。
こんな説明を君は「論理的」だと言っているわけだね。
「科学的」と言うなら異論はないけど、反証可能性と論理性を同じもののように言うのは
大いに異論ありだな。反証可能/不能というのは論理における一部でしょ。
・論理的なもの⊃反証可能なもの
・論理的なもの⊃反証不能なもの
・反証可能なもの∩反証不能なもの=空集合
なんじゃないの。
楽しく読ませていただきました。Aさん、だだっ子相手にご苦労さまでした。
科学的な真理は、「反証可能な命題で、かつ、いまだ反証されていないから真理だ」、というのなら、あくまで暫定的な真理(仮説)であって、反証されれば、ただちに真理ではなくなります。
つまり、それまで真理だと「思い込んでいた」だけで、初めから真理ではなかったのです。
まさに、科学的な真理というのはそのようなもの。どこまでいっても「反証可能な仮説」にすぎません。
そんな仮説を信じて、私たちが幸福になれると思い込むことこそ、この人のいう「信念によって信じた」ことになるのではないでしょうか。
仏法で真理とは、三世十方を貫くもの、すなわち「いつでも、どこでも変わらないもの」を言うのです。そして、それは、すべての人が、本当の幸福になれる真理のことです。
因果の道理は、ある程度、この世のことで体験上も納得できるでしょうから、比較的、分かりやすい。
しかし、三世因果、となると、もう無理でしょう。
死後は、あるのか、ないのか。どうなっているのか。
論理的な説明は、ある程度可能ですが、それを聞いて「本当に正しい]と思えるかどうかは、人によって異なるでしょう。
「正しい」と思えたとしても、疑いは残ります。それを疑情(無明の闇)というのです。分かりやすく言うと、死後、どうなるか分からない心です。これはすべての人がもっています。
そしてこの心(無明の闇)が、実は人生苦悩の根元なのです。
この疑いを完全に消し去るには、仏智の働きによるしかありません。
信心決定を、仏智満入、仏智全領とも言います。
仏智を頂く体験です。
その仏智によって、三世因果も、阿弥陀仏の実在も、ハッキリするのです。
人間の、ささやかな論理によって、その存在が左右されるというようなことになれば、仏説は虚妄になり、体験にもあいません。
三世の実在を理解してから、信心決定するのではありません。他力の信心のうちに、阿弥陀仏の実在を認めることも、三世の実在を認めることも含んでいるのです。
我々が、月の光で月の存在を認めるが如く、仏智を諦得すれば、鮮やかに知られます。
人間が信ずるとか、信じないとか、あると思うとか、無いと考えるとか、そんな主観的な意識を超越して常住します。
それが分からないのは、信心決定していないからです。