「続・なぜ私は親鸞会をやめたか」を読んで|本願寺関係者の批難に答える

(5)親鸞聖人の言葉

 

 三世の存在、阿弥陀仏の実在(これらを、この人は「親鸞会の教義」と何度も言っていますが、事実は仏説そのものであり、親鸞会で創作した教義では、もちろんありません)を、信心決定する前に、「論理的・客観的に自分は理解した」などと思い込んでいる人は、ほとんど、いないでしょう。

 親鸞会でまともに聴聞している人には、まず、いないと思われます。

「おれは、論理的に信じていると思い込んでいたが、実は信念によって信じていただけだった。間違っていた。みんなもそうだろう。早く目を覚ませ」と叫びたいのかもしれませんが、だれも、論理的に、客観的に信じている、などとは思っていないのですよ。

 だから、この方の指摘は、自分自身のことではあるとしても、ほかの人たちにまで当てはめるのは、ちょっと、ちがうんじゃないの、と思いますね。

 どうも、この人は、妄想が激しいようです。

自分の論理への過信

 自分が、「論理的に納得したから、正しい」という「信念によって信じた」ことを、絶対的であるかのように、しつこく、言い立ててくる性向が感じられます。実にねちっこい。

 そもそも「論理的・客観的に理解した」ていどのことが、どれほどのものですか。それこそ、科学万能と信じる幼稚な信心です。

 「客観的な真理だ」と人は「主観的に信ずる」のです。仏法を知っていれば、常識とも言えることですが。

「論理的に説明せよ」と何度も繰り返していますが、「自分自身の論理性」を、もう少し、冷静に振り返ってみてはどうでしょう。

「自分が論理的に正しい、と納得できたことは、正しいのだ」という、「自分自身の信念」を、再点検してはいかがでしょうか。

 永遠の生命、心と宇宙、主観と客観……

 こういうことを論ずるには、まだまだ早すぎるようですね。失礼ながら、考え方が幼なすぎます。

筆舌つくせぬ、よろこびの世界

 親鸞聖人のお言葉を紹介しましょう。


五濁悪世の衆生の
 選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり  (『高僧和讃』)

「無明の闇が破られて、筆舌つくせぬよろこびが、悪に染まった親鸞に、常にからだ一杯あふれている」

 親鸞は、弥陀の誓願に救い摂られたことがうれしい。
 絶対の幸福に合掌せずにおれない。今日の一日が尊い。今の一息はもっとありがたい。吸う息吐く息が不思議だ。
 よろこばぬ心が見えるほど感激だ。

 焼けもせず、流されも、盗まれもしない、いつも満ちている無上の幸せを、


「不可称・不可説・不可思議の 功徳は親鸞の、身にみてり」


と、誇り高く詠いあげられています。

不可称・不可説・不可思議の功徳

 次は、この和讃を解説された蓮如上人の文章です。

不可称・不可説・不可思議の功徳」ということは、
 限りもなき大功徳のことなり。
この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻向しまします故に、
 過去・未来・現在の三世の業障(無明の闇)一時に罪消えて、
  正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり。(御文章)

 過去、現在、未来の三世を貫く苦しみの元凶・無明の闇が破れ去った 一念に「不可称不可説不可思議の大功徳」をいただいた、という、明証 です。

 論理的に、理解できますか。

 反証可能だとか、不能だとか、くだらん議論を超越して、弥陀の本願は 真実なのです。

 その絶対的な真理を体得した世界を、あえて言葉で表現されているの ですから、最後には「不可称・不可説・不可思議」としか言いようがな いのですよ。

名号六字の大功徳

 名号六字の素晴らしさを、蓮如上人は以下のように絶賛されています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
 さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
 この六字の名号の中には、
 無上甚深の功徳利益の広大なること、
 更にその極まりなきものなり。」 (御文章五帖)

「南無阿弥陀仏」の六字には、限りない大功徳があることを教えられているお言葉です。六字の名号に、それほど功徳があると思えないのは、猫に小判、豚に真珠というものです。あなたに知る智恵がないのですから。

 分析すれば、六つの文字。どうしてそんなお力があるのか。 不思議でしょう。その不思議な力を、お釈迦様は、一切経で説き明かさ れたのですよ。

愛情が科学で証明できますか

 

 こんな話を思い出します。

「母親の涙も、化学的に分析すれば、少量の塩分と水分にすぎない。  しかし、その涙の中には、化学も分析し得ない、深い愛情がこもっていることを知らねばならぬ」

 十九世紀のイギリスの大化学者ファラデーは、こう学生たちに説いた。
 ところが、愚かな学生にはファラデー先生の話が分からなかったというのです。

 母の涙にこめられた愛情も、科学的な証明は不可能でしょう。 いわんや、弥陀の大慈悲は。

 釈尊は、さぞかし大変であったろうと、ご苦労のほどが偲ばれます。

 その苦心の結果が、膨大な八万四千の法門なのですよ。


 言葉は、人間の作ったもの。相対で、不完全です。しかし、その相対の言葉によって、言葉を超えた絶対の境地に入るのです。

言葉にならない体験

まさしく、信心決定という体験は、言葉になりません。だから本当は、 「真実だから、真実なんだ」としか言いようがないことなのです。

 だが一方、誤解を恐れずにあえて言うなら、「だれでも聞けば、論理的に納得できる」という言い方も、別の意味で、必ずしも嘘ではありません。

庄松同行(世間的には八文[頭の弱い人]と馬鹿にされていた人)の言葉を紹介しましょう。

「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、
   きけば合点のゆく教え
 合点したのは信ではないぞ それは知ったの覚えたの
 合点せよとは口ではいえど 不思議不思議のほかはない」

次は、救われた人がよんだと言われる歌です。

「富士の白雪、朝日で溶ける。
   凡夫の疑い、思案じゃ解けぬ。
  晴れたお慈悲の声聞きゃ 晴れる」


 仏智を体得すれば、別の次元の論理で、鮮やかに理解できるのです。

 信知(信心の智恵によって、知らされる)というのが、より正確ですが、それは、本人の智恵や学問のレベルとは関係なく知ら されますから、まさしく誰でもハッキリするのです。

そして、それまでの自分の思い、考え、信念、論理、思想、信じていたことすべてが、間違っていた、自分は逆立ちしていたということが、ハッキリいたします。人生観、世界観が大転換いたします。

「ただ、弥陀の本願だけが、まことであった」、ということが、火に触ったよりも、ハッキリするのです。

弥陀の本願まことだった。親鸞聖人のお言葉

他人の言葉で信仰が動揺した人々に、親鸞聖人はキッパリとこう仰有っています。

弥陀の本願まことにおわしまさば、
  釈尊の説教、虚言なるべからず。

仏説まことにおわしまさば、
 善導の御釈、虚言したもうべからず。

善導の御釈まことならば、
 法然の仰せ、そらごとならんや。

法然の仰せまことならば、
 親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か
     (『歎異鈔』二章)

「弥陀の本願(誓願)がまことだから、それ一つ説かれた釈尊、善導、法然の教えに間違いがあるはずがない。これらの方の教えがまことならば、そのまま伝える親鸞に、どうしてウソ偽りがあると言えるのか」


ふるえるような名文ではありませんか。

よくよく、かみしめてみましょう。



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